【歴史】天武天皇の人生と業績。古事記と日本書紀をつくらせた天皇について詳しく語ります。

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みなさん、こんにちは。

今日は、ちょっとマニアックかもしれませんが自分が好きな天皇の一人である天武天皇についてその魅力をひたすら書いてみたいと思います。

「日本」を創った天武天皇

みなさんは日本がいつから「日本」と呼ばれるようになったか知っていますか?

そう、天武天皇の在位の時代(673~686)からです。

それ以前は、日本人は自分の国を「ヤマト」と呼んでおり、中国や朝鮮半島などの外国の人たちは「倭国(わこく)」と呼んでいました。

それを、「いや!我々の国はこれからは『日本』である!」と決めたのが天武天皇なのです。

さらに、「天皇(てんのう)」という呼称を初めて使ったのも天武天皇と言われています。(所説あり)

まさに、「日本を創った天皇です。

日本の神話『古事記』『日本書紀』を編纂させた天武天皇

日本の神話が書かれた貴重な文献として古事記日本書紀があります。

この2書には、「日本という国がどのようにできたのか」ということが詳しく書かれています。(『日本書紀』が淡々と史実(History)を記述しているのに対して、『古事記』は物語(Story)として書かれています)

この2書の編纂を命じたのも天武天皇です。彼は、めちゃめちゃ記憶力のいい稗田阿礼(ひえだのあれ)という28歳の部下を取り立てて、それまであった様々な歴史書や伝聞を学ばせ、正史としての『古事記』を編纂を命じました。(アマテラスとかスサノオとかが出てくるあれです)

当時は、まだ国といっても、今とは違ってバラバラな状態だったんです。東北などを中心に、地方にも様々な豪族がいたので、国としてのまとまりをつくる必要があったわけです。

なので、「天皇の名の下に、この2書を国の正史として認める」ということで、日本のアイデンティティーを形づくろうとしたんですね。

この2書が完成するのは、8世紀の元明天皇の時でした。

天皇になるまでが「めちゃめちゃかっこいい」

さて、そんな偉大な天武天皇なのですが、彼はどのようにして天皇になったのでしょうか?ここがまたすごい話というか、めちゃめちゃかっこいいんですよね。

 

天武天皇天皇になる前のお話。天武天皇大海人皇子(おおあまのおうじ)という名前でした。さいころから背が高く、大人になってからも雄々しく、文武に通じていたようです。

天武天皇にはお兄ちゃんがいました。そう天智天皇中大兄皇子です。(2人のお父さんは舒明天皇、お母さんは皇極天皇(後の斉明天皇))

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第38代・天智天皇

中大兄皇子と言えば、そう大化の改新(645)」を起こしたあの人ですね。大化の改新蘇我氏の影響を排除した中大兄皇子は、その後、天智天皇として即位するのです。

天智天皇についても別の記事を書こうと思ってます。これまたすごいことをした天皇

天智天皇の後継者を誰にするか

さて、事件が起きる発端は、天智天皇の晩年。「誰を次の天皇にするか」という問題に関してでした。

現代だと、天皇になる順番(皇位継承順位)は決まってますよね。最近だと、令和になって、徳仁(なるひと)様が天皇になりましたが、次は秋篠宮様、そしてその息子の悠仁(ひさひと)様の順番で決まってます。

しかし、当時の日本では天皇皇位継承の順番というのはちゃんと決まってなかったんですね。

元々、天智天皇は、弟の天武天皇皇位を譲るつもりでしたが、晩年になって自分の息子の大友皇子(おおとものおうじ)を即位させたいという素振りを見せ始めました。そして、大友皇子に実績をつくらせるために、彼を太政大臣(今でいう首相)に取り立てます。

しかし、死の直前になると、天智天皇は、「やはり弟の大海人皇子皇位を譲る」ということで意思を表明しました。

しかし、大海人皇子「このまま自分が天皇になったらやばい」と感じます。

吉野に放たれた虎

なぜなら、「もしこのまま自分が天皇になっても、大友皇子の勢力に暗殺されるだろうと予想したからです。大友皇子を補佐している蘇我赤兄(そがのあかえ)もかつて別の皇子を陰謀で絞刑にさせた人物です。

そこで大海人皇子は、天智天皇からから皇太子として任命されたその日、

「次の皇位につけとのことですが、残念ながら私は病気がちです。とても国を切り盛りできるような力はございません。いったん皇位は皇后にお与えになり、どうぞ大友皇子を皇太子としてください。私は今日から出家して坊さんになり、功徳を積みます」

と言って、その日に頭を剃って、出家してしまうのです!めちゃめちゃ行動が早い(笑)自宅にあったすべての武器も全部政府に差し出して、吉野(奈良県)に隠遁してしまいます。電撃的な動きですね。

この大海人皇子の出家について、後に偉大な歴史家である頼山陽(らいさんよう)は、大海人皇子を「虎」に例えて、こう詩にしています。

虎を南に放つ。(吉野は近江京の南にある)

虎の眠るや酣(かん)たり。(虎はぐっすり眠っている)

虎の視るや耽(たん)たり。(しかし単に眠っているのではない。ずっとうかがいすまして見ているのだ)

壬申の乱」-皇位継承をめぐっての叔父と甥のバトルロワイヤル

叔父が吉野に出家してしまったものの、大友皇子は気が気でなりません。隠遁したといってもマジで怖い叔父なのです。

そして天智天皇がなくなった翌年の5月。吉野の大海人皇子の元に、「大海人皇子を滅ぼそうと、大友皇子が動ている」との報告が届きます。実際に大海人皇子密偵に調べさせてみると、その通りでした。

怒った大海人皇子は立ち上がります。

「出家して、病気を治し、100歳まで長生きしようと思っておったのに。このまま何もしないで滅ぼされてなるものか!」

大海人皇子は、虎のごとく迅速に行動します。家来に都と東国との道路を塞がせ、大友皇子の後方連絡線を絶ってしまいます。そして一気に挙兵!

都の近江京では、「大海人皇子が挙兵した」と知ると、みんなビビってしまって逃げ出してしまう人もいたようです。

大友皇子の軍は局地的には勝利はあったものの、最終的に崩壊。近江京は陥落し、大友皇子も自殺。そう、これが世に言う「壬申(じんしん)の乱」(672年)です。

完全な武力制覇だったので、大海人皇子天武天皇)の権力は絶大になりました。実力で大王(天皇)の位が決まるというのはそれまでの歴史の中でも画期的なことでした。トランプゲームの大富豪で言えば、「ジョーカー」になったような感じですね。

人々も、天武天皇を神と見るようになるくらいのレベルでした。(「天武天皇は神」という歌が万葉集にいくつもあるんです笑)

先ほどの頼山陽は、この大海人皇子の挙兵について、「虎に翼が生えたようだった」と言っています。

こうして、第40代の天武天皇が誕生し、聖徳太子から流れが始まった日本の中央集権体制が最終段階に入り、確立していくことになります。

天武天皇を知るためのおススメ書籍

 
幕末の尊王攘夷の志士たちに大きな影響を与えた大ベストセラー日本外史を著したことでも有名な思想家・歴史家の頼山陽
この本では、頼山陽の著作の1つである『日本楽府(がふ)』を、故・渡部昇一先生が丁寧に解説してくれてます。
『日本楽府』は、記事の中でも紹介したように、古代から近世までの日本の歴史を「詩」で表現しているのですが、それがとても美しい。頼山陽の巧みな詩によって鮮やかに歴史の情景がみえてきて吸い込まれます。
超おススメの一冊です。